02月号 Vol.324【友情】
Written by 藤浪義孝牧師
「立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなければ、寒いからといって葉を落とすこともない。どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固なものになっていく。」これは、中国三国時代の武将、諸葛亮の言葉です。確かに、真の友情は、自分のメリットよりも、相手のことを考え、相手にとって何が一番良いことかを思いて相手を大事にすることです。このような友情は、引くと締まる自在結びのようです。どんなことが起こっても堅く結ばれています。
昨年の冬季に体を壊してしまいました。自分の健康管理するモチベーションの欠如が主な原因でした。寝込んでいた時、高校時代の親友が寄り添ってくれました。「離れていても一緒だから元気だせよ。」40年間、付き合ってきた親友の励ましの一言は、大きな心の支えとなりました。
聖書の歴史書の一つ、第一サムエル記に人々から愛されたダビデ王の青年時代のことが記されています。ダビデには、とても良い友人がいました。ヨナタンという人でした。著者はダビデとヨナタンの友情をとても美しく描いています。二人の友情で強調されていることがあります。それは忠実さです。今日、友達同士が契約を結ぶということは聞き慣れないことですが、聖書の時代、互いに契約を結んで友情を固く守りました。
友情は、自分のために友人を利用するのではなく、相手にとって何が一番良いことなのかを考え、自分の友達を大事にします。ダビデとヨナタンは、それぞれ自分中心ではなく、相手のために自分の身を捨てても、構わないという心の持ち主でした。
ヨナタンの父は、サウロという当時イスラエルの王様でした。ダビデは王に仕えていました。ところが、サウロ王は、ダビデがとても人々から愛されているのを見て、ダビデを妬みました。その妬みが憎悪に膨れ上がり、サウロ王は彼を殺そうとしました。妬みは、健全な人間関係を潰します。妬みや嫉妬は、憎しみに代わるからです。憎しみが膨れ上がると、言葉の暴力で人を追い詰め、それで満足できない場合は身体的暴力によって相手を傷つけます。ヨナタンは、友達を大事にする人でした。サウロ王の暗殺計画を知ったヨナタンは、父親であれども、友達を守るために、「王様、どうかあなたのしもべ、ダビデについて罪を犯さないでください。」と父親に申し出たのです。父親は、「あれは殺されることはない」と答えたのですが、妬みというものは、そう簡単に消せるものではありません。
憎しみが憎しみを招きサウロはダビデに対して殺意に燃え上がりました。ダビデは、王様に会うたびに自分に対する王の殺意を感じたのでした。精神的に追い詰められていたダビデを、ヨナタンは慰め励ましました。そして、サウロ王が計画した新月の祭りを避けるようにダビデに勧めました。ダビデの不在にサウロ王がどう反応するかで、ヨナタンはサウロ王の心の真意を確かめようとしたのです。結局、そのことがサウロ王の耳に入り、王はヨナタンをののしり、槍を投げつけました。ヨナタンは、こういうことになってしまうと予想していたのでしょう。しかし、自分の命が危なくなっても、友人を助け、守りたかったのです。これが本当の友情というものです。
ヨナタンは、意図的に逆境の立場に自分を追いやり、友達を守りました。それに対してダビデはどうだったのでしょう。ダビデもヨナタンに忠実でした。ダビデは、ヨナタンに助けられた時に、3度も地に平伏してお礼をしました。ダビデは、ヨナタンに「もし、自分に咎があれば、あなたが私を殺してください。」と自分の身を投げ出すことさえしました。それほど、ダビデは、ヨナタンを大事にして、ヨナタンへの忠誠を守り通しました。ヨナタンもダビデを大事に守りました。真の友情です。
殺意をやめないサウロ王に、ダビデの心は拉がれました。絶望感を感じました。特に、ヨナタンがサウロ王の善意が信じられるまで、逃げて身を隠しているように言われた時、ダビデはどれほど精神的に辛かったことでしょう。私は、ダビデとヨナタンの友情にとても励まされるのです。自分たちの友情のために、自分たちの身の危険を本当に犠牲にしました。ヨナタンは、その友を助け起こしたのです。聖書は忠実な友達関係についてこのように書かれています。「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」(伝道の書4章10-12節)
(次号に続く)
「今月の言葉」
「信頼なくして友情はない。誠実さなくして信頼はない。」
(サミュエル・ジョンソン)
「我が家の秩父物語」
2019年の秋に突然日本におられる具志堅先生から一通のメールが届きました。「『百万人の福音』(2019年8月号)に気になる名前を発見しました。たぶん、名水子さん(私の母)のご親戚ではないかと思うのですが…調べてみましょうか?」という内容でした。その記事というのは《この町この教会》というテーマで日本キリスト教団・秩父教会が紹介されていました。その教会に先生は約30年前に夏季キャラバン伝道で訪問したことがあり、かつて先輩の牧師が牧会していたとのことでした。私は半信半疑でしたが、導かれるままに調査に同意しました。
その後、新型コロナウィルスが世界を襲いました。連絡をとってもらうと、母方の親戚のもので、実は血を分けた姉妹(私の叔母)たちがいるということが判明しました。そして、その親戚の皆さんは私たち飯島家のことを本や映画を通してすでに知っていて、福音版の連載記事(2014年10月第30号の「わが家のグランマ」)を読んで、「ああー名水ちゃんを発見!1日も早く逢いたいと思っていたけど、どうしたらよいかわからないまま時が過ぎていました」という事を後に伺いました。実は、彼らは私たちを長い間探していたのです。私の幼い日、目黒に住んでいた頃までは行き来があったようなのですが、姉と私は何も知らない状態でした。引越しなどを機に、音信が途絶えていたのです。
2022年10月30日に母・姉・私の3人は埼玉県秩父市を訪れました。駅にお迎えに来てくれて感動の再会。秩父市内にある祖父が眠る教会の墓地を訪れて、数十年ぶりのお墓参りとなったのです。そこには大きな十字架が立っていて、「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ 3:20)と刻まれた石碑がありました。それに私の祖父の名前があることを初めてみました。飯島・福田の家族の中で、亡き夫・夏樹と私が最初のクリスチャンと思っていましたが、それは間違いでした。キリスト信仰のルーツはここにあったのだという発見に、心からハレルヤ!という思いでいっぱいになったのです。
家族のさまざまな事情で離ればなれになっていました。秩父の叔母たちは母の異母姉妹です。上から96歳、92歳、89歳と聞いてびっくり!決して一時も一番年下の名水子を忘れたことはないと語っていました。祖父の残した家族の歩みを教えていただき、その地を案内してもらいました。家族で経営する食堂とカフェでお食事もし、その丁寧なおもてなしに感動しました。また、夜には家族全員集合で宴会まで催してくださいました。その歓迎ぶりに私たち三人は神さまの恵みで心がいっぱいになりました。さらに、お手製の工芸品まで頂きました。こんな日が来るとは夢にも思うことはありませんでした。
実は、この秩父訪問の前、コロナ禍ですぐに駈けつけることができなかったため、母と長女の叔母が文通をする期間がありました。お互いに思いを言葉にして交流、母は逢いたいという思いが半分、恥ずかしさと戸惑いの思いが半分であっただろうと想像します。けれどもこの訪問を境に、家族愛を新しく発見した喜びが生きる力になっていることと思います。姉と私にとっても新しい家族の広がりを喜び、次は子供たちを連れて訪れたいと思っています。イエスさま、本当にありがとう。
編集後記
コロナ禍で深まった友情、家族は沢山あると思います。まずは相手を思う事。それはクリスチャンになって一番深く身に付く素晴らしい賜物。イエス様を信じていて良かった!と思える瞬間です。今月も素晴らしいメッセージと証を聞くことができました。皆様のご家庭にも神さまからの愛のギフトが沢山届きますように。。
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