woman with american themed scarf wrapped around her neck

1月 10, 2025 | 天主閣便り

1月号 Vol.344【新年を迎えて】

Written by 藤浪義孝牧師

新年あけましておめでとうございます! 日本で最も人気のある祝日の一つは、元旦です。この日、多くの日本人は神社やお寺を訪れ、初詣をします。小さい頃、大晦日の夜に早寝は縁起が悪いと言われ、「紅白歌合戦」を見て除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べて床に就いたものです。朝は早くから起こされ、初詣に出かけました。神社の鳥居をくぐり、手水舎で手を洗い、参道を通って拝殿の前に置かれているお賽銭箱に十円を入れました。そして本坪鈴を鳴らし、「神さんに礼」と父から言われるままに2回二拍手して手を合わせました。拝殿の奥から白と赤の綺麗な衣装を着た若い女性が舞いながら現れ、鈴を私たちの頭の上で鳴らしました。そして新年の厄除けと開運のためにと「お神札」(おふだ)をもらいました。家に戻ると両親がその札を台所の上に設置した神棚に置きました。 そんなある初詣のことでした。「お父ちゃん、誰にお祈りするの?」と尋ねました。というのは、お寺には、仏像が祀られていて、何に頭を下げているのかわかっていましたが、神社ではそういうものがないので子供ながらに不思議に思っていました。すると父に「親のする通りにせんかい!」と言われ、疑問を感じながら参拝した時のことを今も覚えています。

成人した頃、聖書からまことの神について知りました。「使徒行伝」という聖書の歴史書に、ギリシャのアテネに「知られざる神に」という碑文が刻まれた祭壇が一つだけあり(使徒行伝17:28)、使徒パウロがこの祭壇をきっかけにアテネの人々にまことの神について伝えたことを学びました。私は両親にその話をしましたが、期待通りの反応が返ってきませんでした。しかし、今思い出すと、あの時の話が、両親にとって福音のメッセージに触れるきっかけとなったと思わずにはいられません。それから数十年後、まず私の父が、そして次に母が、主イエス・キリストを信じ、唯一のまことの神を知りました。

去る12月25日に世界中でクリスマスが祝われました。マキキ教会でもクリスマスイブ日英合同礼拝が開かれ、たくさんの方々が出席されました。クリスマスキャロルのしらべに、聖書のことばを静聴し、まことの神を知らなかった世の人々に、天と地を創造された神が、肉をとって人となって顕れてくださったことに思いを潜めました。明るく光るろうそくの灯火を背景に、救い主の誕生の知らせを織り込んだ讃美歌を賛美するフラチームや聖歌隊チームや聖書朗読者たちの姿に、世界中の人々に対する神の愛を思い起こしました。
大昔から預言されていた救い主が処女マリアからベツレヘムでお生まれになりました。その名は「イエス」(救う者)と名付けられました。このおかたによって、どの時代のどの国のどんな人でも、天と地を創造されたまことの神を知ることができるようになりました。このおかたを信じる人は誰でも創造主である神と平和を持つことができると聖書に書かれています。このおかたは、ユダヤ人としてお生まれになられたのに、「異邦人」と同一視され、深い同情心と大きな愛に満ちた働きによって、光と喜びを苦しんでいた人々にもたらしました。イエスは、闇に覆われ、争いが絶えないこの世界に、平和をもたらすために来られました。ところが、悪い人たちは、その正しい教えと行いに耐えられず、悪口を浴びせ、酷くいじめました。そして、呪いの象徴である十字架の木にはりつけにしました。苦しみの果てに、十字架上で死なれました。そして墓に葬られました。ところが、聖書に預言されている通りに、三日目に、墓の中からよみがえられました。そして、40日の間、多くの人々の前に現れ、皆の見ている前で、天に挙げられました。 聖書は、天に挙げられた救い主(イエス)が、ふたたび再臨されることも預言しています。救い主が再臨される時に、人と人との争い、国と国との争いが止み、神の義と平和の王国(神の国)が、全世界に広がると約束されています。その栄えある日の訪れに、すべての軍事施設や武器は破壊され、完全な平和がこの世界を治めます。諸国は二度と戦争をすることを学ばなくなります。怒りも消え去り、もはや悲しみもなく、悩みもなくなります。
聖書に書かれている通り、まことの神は人の手で造られた宮にはお住みになりません。何か不足があるので、お金をもらわなければならないおかたでも、音を鳴らしてもらわないと気がつかないおかたでもありません。誰かに運んでもらわないと動けないおかたではありません。お供えをもらったり、「はらえことば」のような決まり文句を念じれば、祈願に応じるかもしれないという根拠のない考え方を教えるおかたでもありません。まことの神は、ありとあらゆるものを知り尽くし、人の心にあるものが何か知られます。永遠から永遠に「わたしはある」と仰せられ、無から有を創造され、まどろむこともなく、あらゆるものの前に、あらゆるものの上に存在、永遠から永遠に変わることのない比類なき唯一の神です。  私も私の両親も、その昔、伝統や習慣を大事にするあまりに、信じる対象物が果たして本物なのか、真実なのかを確かめもせず、神々と呼ばれるものを拝み、ただひと時の安心感を得るために初詣をしました。しかし、イエスキリストを信じて、まことの神を知り、このおかたを信頼することによってほんとうの平安を受けました。 2025年度を迎えました。たとえ今年の見通しが予測できず目標や進め方が決まらなくとも、全知全能なるまことの神に信頼できる人は、ほんとうに幸せな人です。 「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」(エレミヤ書17:7)
今月の証「生きる~浅井力也展を通して、、」
Written by 中村誠一
昨年の6月、高知県での、「生きる」と題した、浅井力也展を通じての宣教旅行に同行させていただきました。 マキキ教会の皆さま、そして高知県での浅井力也個展実行委員会の皆さま、御観覧に来られた皆さまのお陰で、素晴らしい個展を開催することができました。お越しになった皆さまの中に、力也兄のように脳性麻痺の方や、そのご家族、また、他の神経疾患を持つ方や、その御家族の方々などがおられ、たくさんの方々がお越しになり、交流を持つことができました。遠方からお越しになった友人達との再会の恵み、そしてレインボーコネクションの方々とも一緒に時間を過ごすことができました。また、力也兄に対し、観覧にお越しくださった方々から、”力をいただきました“、“生きる励ましをいただきました”というコメントをいただき、力也兄の命をかけた活動が沢山の方々に勇気を与えました。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

“生きる”という言葉にはとても力強い意味があります。また、意思を伴います。能動的です。“生かす”という言葉はどうでしょうか。誰かが生きることを助ける、支援する、サポートする、という意味合いを感じますね。“生かされている“と聞くと、誰かに支えられて、生きている感じがしませんか?

現在の力也兄の生活、生きるということは、全てにおいて、介護が必要です。食べることから、排泄。起きることから、寝ることまで。一つ一つの生きる動作は人の力を借りないとできません。その介護をするのが、母、三和子姉です。ベッドから車椅子へ。車椅子から、タクシーへ。タクシーから車椅子へ。そして会場へ。車椅子上では5分から10分おきに、座った姿勢を保つために、身体を上に持ち上げないといけません。排泄も数時間毎に介助しないといけません。間に合わない時には、濡れた衣服に着替えないといけません。それらの必要な物品を準備し、持ち運ばなければなりません。そのために沢山のバッグやスーツケースも必要です。ですから移動も大変です。母、三和子姉の愛と大きな犠牲があってこそ成り立っています。

私は、そのような状況で今回同行させていただき、力也兄の手伝いを通じて看護師としての基本に立ち返ることができました。また驚くべきことに、なんと会場の爆破予告があり、結果的には何も起こりませんでしたが、宣教活動に伴う『殉教』ということについて考えさせられました。私は医療従事者なので、人命救助や、人命・安全第一という考え方をする癖がついています。しかし、状況によっては、現場にいる宣教に赴いている信徒や観覧に来る一般人の人命や安全をも危うい状況に陥る覚悟で信仰を貫かないといけないのだと、この事から学びました。そして、パウロの宣教について思い出しました。コリントの信徒への手紙二11:23ー28です。「…(略)苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした…(略)このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」その様なひどい目に遭っても、イエスキリストの信仰を持って宣教活動を続けたパウロは、たくさんの信仰の種を蒔き、同胞、異邦人を問わず交流し、その働きを通して、たくさんの人たちに絶えず福音を述べ伝えました。私はその様な宣教活動はできません。しかし、その恵みはいただきました。

私には好きな御言葉があります。ヨハネによる福音書15章13節です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」今回の「生きる」個展を通して、関わってくださり、ご尽力くださった方々は、まさにこの御言葉を体現してくださったのではないかと思います。

心より感謝を申し上げます。

編集後記
主にあって、明けましておめでとうございます。 天主閣便りも30年以上にわたって皆さんにお届けして今月で344号となりました。ざっと344人の証をお届けしたことにもなります。今年はどんな方がイエス様と出会い人生を変えられるのでしょうか?時として涙しながら作り上げられるこの天主閣便りが世界中に届けられますように。【玉寄朋子】

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