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4月 11, 2025 | 天主閣便り | コメント0件

3月号 Vol.346【たとえ谷間でも】〜詩篇23篇〜

Written by 藤浪義孝牧師

「【主】は私の羊飼い。 私は、乏しいことがありません。・・・たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23篇抜粋) 羊は元来日本には生息していませんでした。西暦5世紀に百済から贈り物として日本に送られた動物です。今では羊は肉用種として飼育されていますが、聖書の世界では、羊は人間に喩えられ、人間の精神的な真理や創造主なる神の配慮を例示するために頻繁に用いられました。古くから羊は羊毛、羊乳、繁殖のために飼育されました。羊毛は、難燃性であるため、長持ちし着心地が良く、雪や雨に濡れても、暖かさを保つ特徴があります。羊乳は栄養価が高く、牛乳に比べてビタミンやミネラルを多く含み、健康全般に役立つ飲料です。ですから羊は、古くから貴重な動物として大事にされてきました。 この詩篇の作者は古代イスラエル王国第2代の王ダビデです。キリスト教葬儀によく使われるこの聖書箇所は、確かに愛する人を哀悼する人々へのメッセージを含んでいますが、実際は、死の時だけでなく「生涯のすべての日々」にわたって創造主なる神が、私たちにしてくださることに焦点を当てています。おそらく、ダビデの晩年に三男アブサロムによる反乱の頃に書かれたものです。ダビデにとってあれほどの惨劇はありませんでした。ダビデは、神と共に歩んだ長い人生の中で経験した困難な出来事を思い起こしながら、神のいつくしみと恵みを詩篇の中で綴っています。この詩篇は、あらゆる時代のあらゆる年齢の人々に愛読され引用される一方で、激しい戦いと葛藤を経験し、重荷を負いながらもひたすら敬虔に生きる人々に向けられたものです。

神の民がか弱い羊にたとえられている目的は 「羊飼い」について学び、神がどれほど優しく私たちを気遣ってくださっているかを知るためです。食用のための羊肉にとらわれるとこの比喩表現を見逃してしまいます。羊は注意力や危機感にかけた動物です。迷子になりやすく、常に世話が必要です。羊は導かなければなりません。中近東の羊飼いは、羊たちを名前で呼び、羊たちも羊飼いの声に反応します。

聖書の世界の羊飼いは、羊の世話をし、羊を導き、羊に食べ物と水を与え、羊が疲れたり、傷ついたり、傷つけられたり、病気になったりした時には丁重に世話をし、羊が迷子になった時には探しに出かけ助けました。あらゆる方法で羊を愛しました。ですから羊飼いがいるところには備えがあるので羊はいつも安心することができました。

「谷間」という言葉から思い浮かぶのは、山々の間に平穏に横たわる、なだらかな草地の「谷」や「牧草地」のイメージでしょう。しかし、この詩篇の「谷間」のイメージとは異なります。「谷」とは、深い渓谷や峡谷のことでした。狭く、暗く、湿気があり、通常は急な石壁に囲まれており、逃げ場のない場所でした。
谷は、そびえ立つ断崖のふもとにあることが多く、蛇や野生動物、犯罪者が闇に潜んでおり、非常に危険な場所でした。また、パレスチナでは草が育つ季節が非常に短いので、羊飼いたちは残りの期間、羊たちに食べさせるのに苦労していました。そのため、羊を涼しく湿った土に生える植物が茂る谷へと導く必要がよくありました。牧草地に行くためには谷間を通る必要がありました。「死の陰の谷」とは、羊飼いとその羊が通らざるを得なかった非常に危険な実際の谷の名前であったという説もあります。聖書に描かれている「谷」は人生の最も暗い時期の象徴です。「死の陰の谷」は、人生で最も深刻な状況、死が現実のものとなる恐ろしい状況について語っています。重病や病気、 突然の健康問題、重大な事故、命にかかわる自然災害や人災、 犯罪、暴力、 戦争、 テロ攻撃、飢饉や極度の貧困などです。しかし、ダビデは、人生の最も暗い谷間を歩むことを恐れないと証言しました。 たとえ自分自身は無防備であっても、危険に直面しているのは自分だけでなく、主が共にいることに安心していたからです。主がそばにいてくださることが、ダビデにとって唯一の慰めでした。恐怖と戦慄から解放されたのです。
羊飼いは「むち」と「杖」という巧みな武器を備えていました。「むち」は、馬などを打って進ませる細長い棒ではなく、獣や盗賊を追い払うために携行した重い棍棒でした。それは致命的な武器でした。「杖」は羊飼いが羊を扱うために用いた道具でした。羊飼いは、荒地や岩だらけの場所を移動する際に、杖を支えとして用いました。ほとんどの杖の先端は曲がっており、羊飼いはそれを用いて羊の足や首を優しく支え、穴から引き出したり、群れに戻したりしました。羊が群れから離れて迷い出たり、群れと一緒に進むのをためらったりしたとき、羊飼いは杖で羊を優しく突いて促しました。 ダビデは人生の谷間でも恐れることがありませんでした。なぜなら、主は彼の羊飼いであり、自分の迷いも含め、あらゆる死の危険から自分を保護してくれることを知っていました。主は、闇の中でもダビデをご自分のそばに置き、ダビデが向こう側の光へと無事にたどり着くまで、一歩一歩を共に歩んで導いてくださったのです。 人生において、私たちはさまざまな経験をします。その中には非常に困難なものもあるかもしれません。しかし、どのような困難なことも神はあなたから遠くにおられるのではなく、あなたのそばにいて、あなたを導き、恐れる心を鎮めてくださいます。主は、あなたの最も苦しい時にも共にいてくださるのです。 ぜひ、この詩篇をあなたの心の支えにしてください。
今月の証「神の奇跡」

Written by 大島弘之【箱崎キリスト福音教会】

私は宗教についてあまり興味を持つことなく育ちました。キリスト教と言えば日本史で「以後よろしく」と覚えた1546年イエズス会フランシスコ・ザビエルにより日本に伝来したというのが最初の出会いであったと思います。私の趣味はスポーツと旅と献血です。旅ランとして昨年3月第1回ふくい桜マラソンを走り47都道府県フルマラソン完走コンプリート致しました。献血は昨年末に300回目を行いました。

そのような私が今回バプテスマを受けることになった経緯、この教会のメンバー智津子との出会いを少しお話したいと思います。

最初の出会いは2023年2月22日那覇空港へ向かうANA1201便で隣の席になったことでした。

その後私が福岡出張の際何度か会い食事をいたしました。智津子は自分のことをよく話してくれました。ご主人が10年前に亡くなられたこと、とても良い方であったこと病床洗礼を受けられたこと、小さいころからクラシックバレエをしていて今フラの先生をしていること、クリスチャンであること、教会のことなど多くのことを話してくれました。

「神のなさることは時にかなって美しい」

そして偶然ですがその後6月にダニエルケイイノウエ国際空港のANAラウンジで出会い、神様の御業と今になってみればそう思います。クリスチャンであり、とても愛情深い智津子に次第に惹かれていきました。1年前に二人でハワイに行く計画をしておりましたが年末に智津子が大腿骨頸部骨折という大怪我をしてしまい今回は難しいかなと思いましたが、手術後約3週間リハビリを頑張りDrに止められましたが半ば強引にハワイへ車椅子で参りました。その滞在中にこの教会を訪ね本当に奇跡のようですが智津子が美しく立ち上がることができました。ほんのわずかな時間ですが彼女がいつも言っている“神のなさることは時にかなって美しい”とそんな彼女と神を僕も信じてみようと思いました。その2日後私はこのマキキ聖城キリスト教会で信仰告白を致しました。

その後縁がありまして2人で対馬キリスト福音教会を尋ね牧師夫妻の温かいお人柄にふれ。また対馬の素晴らしい自然も感じ対馬で受洗することになりました。 そして受洗日7月31日は智津子の大切な前の夫正人さんの昇天日でした。そしてイエズス会の初代総長聖イグナチオ・デ・デヨラ司祭の記念日でありました。後から分かったことですが最初に申し上げたはじめて日本にキリスト教を伝えたフランシコ・ザビエルの記念日は私の誕生日12月3日というのも何か必然につながっていると感じました。 バプテスマを授かったばかりでビギナーでまだ何もわかりません、またそれにより何が変わったのか確かなことはわかりませんがクリスチャンになったことでこれから信仰の道を進めていきたいと思います。本日私たちにこのような機会をお与えいただきましたこの教会の皆さま、藤波牧師そして朋子さんに感謝いたします。最後にますますマキキ聖城キリスト教会が恵まれますように主イエスキリストの聖名において祈りつつ感謝いたします。  アーメン
編集後記
先日、日本の札幌からと、神奈川県大和市から、2組のゴスペル・ミュージシャンが来られて素晴らしい賛美集会を開いてくださいました。私とは2世代下の、信仰に熱いクリスチャンたちです。彼らは呼ばれた場所にはどこへでも、お金があろうがなかろうが前進していきます。いつも保障がある守られた環境に身を置く私にとって、彼らは「クレイジー」なキリスト者でした。そして私も、クレイジーな人生に飛び込んでみたいと思わされた瞬間でした。【玉寄朋子】

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