12月号 Vol.355【寄り添う存在を求めて】

Written by 藤浪義孝牧師
聖書が語るのは、宇宙の法則や自然の力ではなく、「人の心に寄り添う存在」という視点です。遠く離れて見守るだけでなく、人の歩みに近づき、同じ世界で苦しみを理解する存在として描かれています。聖書はこれを「受肉」と呼び、「見えない愛が目に見える形で現れた出来事」と説明します。大きな存在が「自分たちで高みに来なさい」と言うのではなく、人のもとへ降りてくるという考え方は、他にあまり見られない独自の視点です。
多くの哲学や宗教は、人が努力して悟りや完成を目指す道を示します。しかし、聖書は「神のほうが先に人を愛し、人の世界へ入ってきた」と語ります。人が強いからでも清らかだからでもなく、ただ愛することを選んだ――その愛が、ひとりの子の誕生として示されたのだとされています。
未来が見えにくい今の時代、聖書のメッセージは静かに響きます。「神は遠い存在ではなく、共におられる。」聖書はその存在を「インマヌエル」(神はともにおられる方)と呼びます。感情や状況が揺れても、愛は揺らがないというメッセージは、多くの人に安心を与えてきました。
もしあなたが「見えない愛を信じるのは難しい」「宇宙に神秘を感じても、それが自分への愛とは思えない」と感じるなら、この古い言葉は、新しい光を投げかけるかもしれません。あなたを見つめ、共に歩む存在がいる――聖書は、その愛が目に見える形となった出来事として、ひとりのみどりごの誕生を語っています。現代に生きる私たちは、情報に囲まれながらも心の底では深いつながりを求めています。人は孤独を感じる時、誰かに理解されたい、受け入れられたいという願いを抱きます。どれほど技術が進歩しても、この根源的な願いは変わりません。そこで語られてきた「寄り添う存在」というイメージは、単なる宗教的概念ではなく、人が長い歴史の中で求め続けてきた心の拠りどころといえるでしょう。
また、愛が形を持つという考え方は、日常生活にも置き換えることができます。家族や友人の思いやり、さりげない励まし、困難を共に乗り越える姿勢など、目に見える行動を通して愛は実感されます。
イザヤ書のメッセージは、そのような身近な経験にも通じており、特別な信仰を持たない人にとっても一つの示唆となるかもしれません。さらに、不確実性の中で生きる私たちには、安心できる物語や価値観が必要です。
文化や社会が変化しても、人が求める「守られている感覚」や「人生に意味があるという感触」は普遍的です。イザヤ書の言葉は、そうした願いに応える確かなしるしとして受け取ることができます。それは、人が孤独や不安を抱えるときに、心の奥に届く静かなメッセージです。
私たちが訪れた場所は、20年前にアメリカ人のパスター Ivan TaitとKimberly Tait夫妻が30人の子供を引き取って始めた孤児院です。 パスターの子供たちの家族もその運営に関わって、20年経った今160人の子どもたちが安心して暮らす、あの広大な土地で私たちが見てきたことは、心から神様を信じている人たちの祈りに、神様が誠実に応えられた具体的な奇跡の御業ばかりでした。 今回イリノイ州とテキサス州からのクリスチャン併せて40人のチームとして、共に働き、主を崇めました。 ハワイから私たち9人はCasa Angelinaにやって来た初めての”日本人ミッショナリー”となりました。
毎朝、バスで到着するのをたくさんの子ども達が待ち構えてくれて、バスから降りるやいなや、子ども達は抱きついてきたり、手を引っ張って遊ぼうと誘ってくれます。 言葉も通じないのに屈託のない笑顔で、子犬のようにからまってきて、本当に愛くるしく可愛い子ども達ばかりなのです。 到着してしばらく子ども達と遊んだ後、奉仕を始める前に、私たちは礼拝で霊的に整えられます。 礼拝の中では、Casa Angelinaで神様の愛によって救われ成長した子が、毎朝一人、証をしてくれました。 本人達の口から、幼い頃の逃げ場のない、繰り返される虐待の中で生きてきた様子を聞きながら、なぜあなたがそんな目に、 という憤りで震える思いと、よく生きていてくれた、と今あるその笑顔が、ますます尊く愛おしくなりました。 彼らそれぞれの成長の記録の写真も合わせて映し出されるのですが、入所当初の怯えた目の幼子が、少しずつ癒されて、イエス様に導かれ、教育も受けて、表情も自信に満ちていく成長の様子に、ご自分に導かれて、子どもたちの立ち上がる力をお支えになった神様への感謝の涙が止まりませんでした。
ここに来る子供達の90%は性的虐待を受け、貧困とネグレクトや虐待の怖さの中をしのいで生きて来たので、入所当初はトラウマの中にいて、何が起こっているのかも分からず、笑顔や子供らしさは全くないそうです。 入所してすぐは、他の子供たちとは違う家で過ごさせ、時間をかけて子供達が癒されていくのを信じ、ただ祈って待つことから始まると言っていました。 その週も14歳の妊婦を含む7人兄弟を受け入れたばかりとのことでした。 私がCasa Angelinaにいる間に、縄跳びをしたり、ハグをしたり、お互いわからないスペイン語と英語で話をした子供達ちも、今のその笑顔からは想像もできない、それぞれの辛い過去があり、それを資料を通して知っていくと、手の温もりを感じた一人一人の子どもが愛おしくてたまりませんでした。 私はパスターIvanの娘のBethanyが朝のメッセージの中でした話にも心揺さぶられました。
彼女はイエス様が大好きでイエス様のお気に入りになる、’His favoriteになること’が目標でした。 イエス様に会いたくて会いたくて、ある日夢の中で、光の中にいらっしゃるイエス様にやっと会えた時、「ここにいます!」と喜んで目の前に立っているのに、イエス様は彼女の後ろを覗かれて、「1人で来たの?」と、残念そうに仰られたそうです。 目が覚めた時に彼女は、今まで大事だった’Be His favorite’から、これからは’Love His favorite’、つまりイエス様の愛する人たちを、イエス様に導いていく信仰生活に移ることを気づかされた、と証してくれました。 私自身、子供の頃から神様に喜ばれる者になりたくて、それを、信仰生活としてきました。 でも、福音を伝えるということは、日曜学校にたくさんの友達を連れて行った無邪気な子どもの頃のようにはできなくなり、マルコ16:15にある「全世界に出ていき全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」というイエス様のみことばに応答しない今のまま天の国にあげられたら、私はイエス様の胸に思い切り飛び込めるのか?というチクリとした痛みを持ってきました。
今回なにより、自分の身をCasa Angelinaに置かなければ体感できなかったのは、私の信じる神様は、私が思うサイズなんかではないということ。 ピリピ2:13「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」 このみことば通り、祈りつつ、みこころのままに働き、その答えとして、ただの土の山だった場所で、たくさんの奇跡を見せてもらってきたこのCasa Angelinaの人たちが信じている、同じ神様を自分も信じていることに、心から畏れと喜びを感じました。到着するまでは、Guatemalaに行くこと自体に怖さがあり、かなりの犠牲を覚悟していたのですが、振り返ってみて、私は一体何を恐れていたのかわかりません。
Casa Angelinaで私がいただいてきたものは、力強い祈りを通して起こる数々の奇跡の御業のシェア、 私たちのいるこの地球上つなぎめのない神様のご臨在の実感、 その計り知れない大きさと全能さに包まれている究極の安心感でした。 皆さんをご一緒にお連れできなかったのが申し訳ないくらい、祝福と恵みの実体験に感謝しかありません。 私たちが1週間滞在していたアンティグアは、街全体がユネスコの世界遺産に登録されているのにふさわしく、風光明媚な美しい街で、穏やかで安全な所でした。 人も優しくて、すれ違う時、道を譲ってくれたり、ほほえみかけてくれたりしました。 その作業中やバスでの移動中のおしゃべりから、ハワイチームだけでなく、他のチームの人たちとも深い話になって証をシェアしたり、祈り合うという素敵な祝福もありました。何かさしだせるなら、力を出して奉仕をしようと思ってグアテマラまで行ってみたら、 ‘祈りの力’と、’奇跡’と、’神様の栄光’を目の前で見せてもらえる祝福をいただくだけでした。
大きい目のグアテマラの子ども達の愛らしい笑顔とつないだ手の温もりは、今も私の心をあったかく満たしてくれています。 私はHugをいっぱいしてあげようとGuatemalaに行ったんですが、いっぱいHugをしてもらって来たんです。 与えようと思って行ったら、神様のあったかい愛をこどもたちを通していっぱいもらうだけでした。 ヘブル書13:21 これは私たちがGuatemalaに向かう前から祈りはじめ、これから先も祈り続ける聖句です。 「平和の神があらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように また、御前でみこころに叶うことを、イエスキリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。 栄光が世々限りなくイエスキリストにありますように。アーメン。」
旅立つ前から祈って支えてくださった兄弟姉妹の皆様、みなさんの祈りがなければ私たちのtripはこんなにスムースで安全で祝福に満たされたものにはなりませんでした。 今回の宣教旅行に導いてくださり、たくさんの祝福をくださった神様が、私に証できる機会を与えてくださったことに、心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。
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