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4月 30, 2025 | 天主閣便り | コメント0件

4月号 Vol.347【復活祭おめでとうございます!】

Written by 藤浪義孝牧師

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカの福音書24章6節)イエスキリストの復活の知らせを告げた御使いの言葉です。

4月20日は復活祭日です。西暦1世紀から今世紀まで全世界の諸教会で祝われてきた祝日です。4月16日は聖木曜日と呼ばれ、キリストの最後の晩餐を記念します。その2日後に出エジプトを記念する「過越の祝い」が始まりました。ユダヤ人は、エジプト奴隷から自由になった紀元前1441年から今日まで「過越の祝い」を守ってきました。

最後の晩餐の最中、十二弟子の一人イスカリオテのユダがその場から離れ、暗闇に出て行きました。イエスは弟子たちに対する愛を余すところなく示され、過越の祝いとご自分の犠牲死を関連付けられ十字架の死と復活を解き明かされました。しかし、弟子たちには理解できませんでした。その夜、イエスは捕えられ、サンヘドリンという71人のメンバーで構成されたユダヤ最高法院によって不正に裁かれました。ユダ属州はローマ帝国支配下にあったため、彼らはイエスに死刑判決を宣告できず、ローマ総督ポンテオピラトに引き渡すことで合意しました。

ポンテオピラトは、冷酷無慈悲な統治者として知られていましたが、イエスを取り調べた結果、死刑に値するような罪は何一つ認められないと本来の性格とは全く違う様子を見せたのです。

総督の妻(プロクラ)は、イエスのことで夢の中でうなされ、「この正しい人に手を出してはいけない」とピラトに強くせがみました。ピラトは、イエスを釈放するつもりでした。しかし当時ピラトとユダヤ人とは緊迫した関係にあり、少なくとも3回に渡る騒動事件でピラトは焦燥感に駆られていました。ユダヤ最高法院によって告訴されたイエスを無罪と判決した場合、蜂起が起こり自分の立場が危うくなると考えたのです。一方、ユダヤ宗教指導者たちは、群衆を扇動して怒り狂い、ピラトの法廷で「十字架につけろ!」と叫んだのでした。彼らの叫び声に挑発されて、ピラトは自分で無実を宣告しながら、やむを得ずイエスに磔刑の判決を下しました。その場からエルサレムの城壁外の死刑場に連れて行かれるまでイエスは酷い拷問を受けました。

イエスはローマの鞭打ちの刑を受けました。骨や金属の破片を鞭の先に取り付けたものでおそらく39回の鞭打ちを受けたと考えられています。40以上は律法で禁じられていたからです。茨の冠を強引にかぶらされ、人々の嘲りと暴行によってイエスの精神的痛みと極度の苦しみと屈辱を味わわれました

イエスの時代から約700年前、預言者イザヤの口を通して、悪行を悔い改めなかったユダの民に神の厳しいメッセージが届きました。それはかつてない荒廃の訪れでした。しかし、将来の希望のメッセージが含まれていました。預言通り紀元前586年−538年にバビロニア帝国によってエルサレムの地は廃墟となり、ユダヤ民族はバビロニアに奴隷として連れて行かれました。しかし、厳しいこらしめを受けたとしても、将来イスラエルの民だけではなく、全世界の人々の祝福のために、救い主キリスト(メシア)が到来することが預言(イザヤ書53章)されました。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(6節)

イエスが苦しみを受け、呪いの象徴である木に磔にされましたことは、遠い昔から預言されていました。磔刑に処された人は、木の上で何日にも渡って苦悶しつつ死ぬのですが、イエスはたった6時間という短期間に息を引き取りました。翌日は、安息日(土曜日)であり、過越の祭りが始まるために、金曜日の日没までに木にかけられた遺体を撤去しなければならないと定められていたため、ローマ兵たちは十字架に掛けられた三人の死を早めるために両足の骨を折ろうとしました。しかし、イエスのところに来ると、もうすでに死んでいたのです。

ローマ兵たちは驚きました。槍でイエスの脇腹を突き死を確認しました。木にかけられたイエスは、「父よ、わたしの霊をあなたのみ手に委ねます。」と言われ、その瞬時に息を引き取られたのです。すなわち、イエスは「殺された」のではなく自らを犠牲にしたのです。それはご自分に不義と不正を行い十字架に釘付けにした人々に彼らの罪悪を負わせられなかったのです。まことに私たち全人類の罪と咎をすべて背負って、だだ一度だけ十字架で死なれたのです。このお方は、まことに愛の人です。

罪と死の法則に縛られ、どんなに努力してもそれを克服できない私たち人類が、罪と死の奴隷から解放され、永遠のいのちによって新しく生まれるために、イエスは死なれたのです。しかし、それで終わったのではありません。聖書に書かれている通りに、数多くの確かな証拠を持ってイエスは3日目に死者の中からよみがえられたのです。

復活祭は春の季節に実にふさわしい祝日ではありませんか。このお方は今も生きておられます。どうかこの良き知らせを心のどこかに覚えていてください。このお方に信頼する人は、だれでも救われます。

今月の証
「私たちは愛します。
まず神が私たちを愛したからです。」

Written by 藤澤佑介【土佐塾学校教諭】

愛するマキキ教会の皆様、これは単なる挨拶のための社交辞令ではなく、心からそう思っています。今年、レインボーコネクションの20周年イベントの準備の真っ只中で、後の準備を土居先生、マックス、ふささん達に託してハワイに来させてもらいました。正直に言うと、20周年イベントの準備は超大変で、色々な調整で疲弊していたように思います。 レインボーコネクションとは何なのか?自分にとっての喜びはどこにあるのか?それが見えなくなってしまっているような気がして辛かったです。

そんな中、生徒を連れ、初日からキャンプに参加しました。これが本当に良かった!懐かしい賛美に身を委ね、藤浪先生の説教に触れ、「私たちは愛します。まず神が私たちを愛したからです。」というメッセージが私の心を捉えました。まさにそうなのです。私の中にあったレインボーコネクションの原点に触れた気がして、涙が止まりませんでした。愛の連鎖。これこそレインボーコネクションの中核にあるものなのですね。「私たちは愛します。まず神が私たちを愛したからです。」 頭ではわかっていたのかもしれない。でもそれがなぜか感じづらくなってしまっていた自分。しかし、今回の11日間で、自然とレインボーコネクションにコミットする喜びが湧き上がってきているのを感じました。

「種蒔きをして実を結ぶには時間がかかる」

今回、もう一つ大きな気付きがありました。それはレインボーコネクションは「つながり」なのだということです。今回ホームステイ中、ホストファミリーのメル&ブリス ニシダさんから、以前ホストした土佐塾の生徒からの結婚の報告の手紙を見せてもらいました。私はここで大切なことを教えられた気がするのです。

1つは、レインボーコネクションとは単に生徒が高知とハワイを行き来するだけではなく、ホストファミリー、キャンプのキッチンスタッフ、その他、私たちの目に届かない準備にいたるまで、一人一人が奉仕を通して神様に仕える機会となっているということ。わかっていたつもりだったけど、見る目の浅さに気付かされました。レインボーコネクションはキリストを結び目としたつながりの網の目なのですね。その広さ、高さ、長さ、深さをもっと意識したいと思いました。これまで、顔を知っているけど名前を知らなかったり、どのような働きをしているか知らなかった人たちと少しずつですが話す機会が与えられ、交わりが深められたことは本当に感謝なことでした。2つ目は、種蒔きをして実を結ぶには時間がかかるのだということです。有限なる私たちは、無限なる神の時間軸は捉えきれません。それ故に、目に見える成果を得たいと願ってしまいます。この働きを通して、何人救われたか、何人教会につながったか。こういう数字は分かりやすく、それゆえにとらわれやすくもあります。私たちを近視眼的にしてしまう側面もあります。しかし、今回、15年以上前の受け入れ生徒からの手紙を見て、自分の視野が狭かったことを教わりました。また、よくよく聞いてみると、卒業してからも、機会があるたびに、お互い連絡をとったり、訪れたりしている人たちがいることもわかりました。今回、シニアアンバサダーとして高知に来てくれるメンバーの中には、以前子どもが、あるいは孫がアンバサダーとしてお世話になったから、と参加してくださる方々もいます。私の目に見えていなかったところでも、20年続けてきたからこそ育まれているものが確かにあるのだと、大きな励ましをいただきました。

最後に、改めてマキキ教会のみなさんにお礼が言いたい。「私たちは愛します。神がまず私たちを愛したからです」20年もこれを体現し続けてくださっていることに心から感謝します。私も高知で、焦らず、丁寧に繋いでいきたいと思います。みなさん本当にありがとう。そしてこれからもよろしくお願いします。

編集後記

私たちが、土佐塾の子供たちとワイワイ楽しく過ごしている間、高知では、レインボーコネクション20周年の準備が脈々と進められていたことを知りました。 その両方に深く関わっていた藤澤先生の労といったら大変な事だったと思います。しかし彼はいつもニコニコ笑顔で、どんな状況にも慌てることなく、冷静に対応する姿勢にとても学ばされました。ここにも主に選ばれた器がある。そんな先生の姿を背中を見て育つ学生たちの将来は明るいことでしょう。【玉寄朋子】

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