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2月号 Vol.345【聖書は信頼できるか?】
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Written by 藤浪義孝牧師
聖書は神の啓示:聖書は、神から啓示された真理として自らを提示しています。聖書で「啓示」という言葉が実際に意味するのは、「ベールを剥ぐ」という意味で、カーテンを引いてその裏側を見せるという意味です。聖書において、神は、そうでなければまったく知られることのないようなことを明らかにされました。神は、推測でも、憶測でも、仮説でもない、絶対的な真実を明らかにされました。それは、まったく矛盾のない真理であり、他の啓示の部分によって否定されたり、妥協させられたり、矛盾したりすることのない真理です。
聖書は神の霊感:偉大な神学者B.B.ウォーフィールドは、「聖書は神の言葉であり、聖書が語る時、神が語っておられる」と述べています。これは霊感についてよく表した言葉です。聖書を神の言葉と呼ぶ理由は、神が伝達を望まれた言葉がまさに聖書に記されているからです。もちろん、聖書は人間の著者によって書かれたものであるため、この概念に問題を感じる人もいます。もし「霊感」が存在するとすれば、それは偉大な芸術家が偉大な芸術作品を生み出すために「霊感」を受けるのと同じようなものに過ぎません。しかし、聖書が意味する「霊感」とはそのようなものではありません。テモテへの手紙第二3章16-17節に「聖書はすべて、神の霊感によるものです。」とあります。「霊感」と訳されている言葉は、「神の息吹」を意味します。神が聖書を「吹き出された」という考え方を伝えています。また、「息」という言葉は「霊」とも訳されるため、聖書の執筆を監督した聖霊の働きを容易に理解することができます。では、人間の著者はどのような役割を果たしたのでしょうか?神は、完成品の完全性、整合性、純度を損なうことなく、超自然的に彼らを用いて言葉を記しました。神学者チャールズ・ライリーは次のように述べています。「神は人間である著者を導き、彼らがそれぞれの個性を生かして、神から人への啓示を誤りなく原典の言葉で書き記すようにされた。」この仕組みについて、ペテロは「聖霊に動かされた人々が神から語った」と表現しました(2ペテロ1:21)。「動かされた」という言葉は、風を受けて進む船を表現するのと同じ言葉です。聖書の著者は、神が望まれるところへ導かれ、神が望まれるものを生み出すように書きました。疑いなく、彼らの個性、文体、視点、特徴は彼らの言葉に反映されています。しかし、彼らの記述は単なる人間の言葉ではなく、神の御言葉なのです。聖書の本文は人間の思索ではなく、超自然的な産物であり、まさに神の言葉なのです。
聖書は誤りのないもの:聖書が権威あるものとなるためには、真実でなければなりません。つまり、誤りのないものでなければなりません。誰かが指摘したように、「聖書はすべてにおいて誤りのないものであるか、あるいはすべてにおいて誤りのないものではない」のです。中間はありません。「部分的に誤りのない」聖書は誤りのある聖書です。
「誤りのない」とは、原典に間違いや誤りがなく、あらゆる面で誤りがないことを意味します。これは私たち現世代にとっては難しい概念です。私たちは相対主義者になりがちで、絶対的な意味で真実であるものはないと考えます。さらに、現代の科学は聖書をはるかに追い越したと私たちの文化は考えます。現代の最も著名な博識な科学者の多くが、最近の進展や発見を踏まえて、聖書を「第三の視点」で見ています。聖書に誤りがないと信じているからといって、聖書のすべての記述を厳格に字義通りに受け取るというわけではありません。聖書はしばしば比喩的な表現を用いています。さらに、長い年月にわたって写本から写本へと伝達される過程で、聖書に誤りが含まれていたことも認められています(驚くほど少ない)。しかし、聖書はそれ自体が誤りのないものであることを証明しています。最も強力な証人はイエスご自身です。マタイの福音書4章1-11節で、イエスは聖書の実際の記述された言葉は、その言葉が含む考えだけでなく、信頼できるものであることを強調しています。同福音書5章17-18節では、主イエスは聖書の絶対的な信頼性を文字の一文字、さらには文字の一部分にまで広げています。イエスは福音書全体を通して、今日では一部の「権威者」たちから疑問視されている聖書の箇所について言及しています。 イエスがそれらを正確で信頼でき、真実であるとみなしていたことは明らかです。間違いのない聖書とは、完全に信頼でき、信頼に足るものであり、原典に誤りがない聖書であることを意味します。聖書を研究する中で、私たちは重要な疑問に対する答えを熱心に期待することができるのです。
ぜひ聖書を購入して読んでみてください。
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韓国では、毎週日曜日には必ず教会に通い、クリスチャンのふりをしていた私は、日本で誰にも何も咎められず自由な生活を手に入れ、とても楽しい大学生活を過ごすはずでした。
しかし、自由な生活を手にしても、心の中はいつも、どこか空しいものがありました。「私はなぜ、なんのために生きているのだろうか?」という問いが、時々襲ってきました。そこで色々な宗教を学んでみました。仏教、イスラム教、ヒンドゥー教etc.お寺をまわり、座禅を組んだり、メディテーションをしたりしましたが、平安が与えられることはありませんでした。大学を卒業し、サンフランシスコへ行き、カナダで就職、結婚もし、リタイアメントの場所として3年前にハワイに移り住んできました。青空が広がる、美しいハワイは天国のようです。そこで英語のアダルトスクールで会った友人が、ウクレレクラスに誘ってくれました。ウクレレはハワイの曲もありましたが、クリスチャンのプレーズソングもありました。そのグループで、日本語キリスト教連合の賛美フェスティバルにも参加し、とても久しぶりに教会堂へ足を踏み入れました。私の心は懐かしい気持ちと、韓国で偽クリスチャンをやっていた自分が思い出されました。 ある時にマキキ教会に韓国語クラブができたので、韓国語を教えてくれないか?と声をかけられました。素直にイエスと言えたのは、教会の雰囲気にあったと思います。マキキは今まで通っていた教会と違い、皆、それぞれが自ら主に奉仕をし、お互いを支え合い、協力し合っている姿がありました。礼拝に出席すると藤浪先生は、牧師も人間であること、人は教会や牧師に従うのではなく、主に従う事の大切さを何度もメッセージで語っておられ、礼拝毎に私の持っていた疑問がとけ、涙がでました。何か月か礼拝に通ううちに、夫のチャンウォンが「洗礼をうけよう」と言いました。夫は日本語がわからず、英語の通訳でメッセージを聴いていますが、神様は彼を通して私を励ましてくださいました。洗礼準備クラスを受け、アラモアナ・ビーチでの洗礼式の日を迎えました。当日は、私の知らない方々も沢山来られてお祝いしてくれて、とても感動しました。幼児洗礼を受けてから何十年、私が座禅やメディテーションをしていた時も神様は共にいてくださり、この日まで導いてくださり、今は祈りと聖霊様の導きによって、いつも神様と一緒にいることを感じます。平安が私に与えられました。これからは、私が人々にイエス様を伝える者として夫と共に用いられることを期待します。関連記事
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