2月号 Vol.335【しあわせ】

Written by 藤浪義孝牧師
「しあわせ」(仕合わせ・幸せ)とは「めぐり合わせ」「天運」「好運」(広辞苑)と定義されています。英語辞書(Webster)は「喜び」「すべてが満ち足りているさま」「満足できる経験」「栄えること」と定義しています。しあわせは、年齢、世代、人種を問わず全ての人の共通の望みです。
ニューヨークタイムズ紙に三百年の歴史を誇るエール大学で最も人気ある講座が紹介されていました。「心理学と良き人生」心理学クラス157。エール大学生の約四分の一がこのクラスを受講するのです。エール大学の評議会の報告書(2013年)に、大学在学中に全学生の半数以上が精神面(メンタルヘルス)のケアーを大学側に求めたことから、学生の精神的ニーズに応えるためにこのクラスが開講されたのです。担当教授ローリー・サントス博士が教える原則の一つは、学生たちが連想する高い成績、一流会社でのインターンシップ、高収入の職業、その他、この世がこれを得れば「しあわせ」になるという諸々ことは、幸福感を決して増加させないということです。「高い成績や名声といったものが、私たちを幸せにするという直感は、まったく間違っている。」と主張しました。これは大学生だけに限られたことではなく、誰にも当てはまることです。
しあわせは、関係と深く結ばれています。人間関係が、円満だと、しあわせを感じます。家庭に安らぎがあれば、よろこびと満足感を感じます。
人間関係にもつれがあれば、しあわせを感じることはできないでしょう。もつれを解こうとせず、そのまま放っておいて、この世が一般に連想する諸々のことにしあわせを求めたとしても、この世は常に流れ、変化するために、喜びを感じたとしても、満足感を味わったとしても、それは一時的で、時とともに消えていってしまいます。またどれほど学識を積んだとしても、心の痛みを消し去ることはできません。 人間にとって最も大事な関わり合いは自分に最も近い存在である父母です。自分らしさを確立できない人や人間関係に悩んでいる人は、自分と親との関係を素直に見直す必要があります。もし疎遠しているなら、改善する必要があります。家族間に和解が成立するなら、心が喜びと満足感で満ちるでしょう。今月の証
「はからずも、ちょうどその時に」
わたしは変えられた 主イエスを知ってから
愛されている喜びを どんな時だって
イエスはそばにいて なんどでも教えてくれる
これは先日カリフォルニアで参加したイクイッパー・カンファレンス(EC)で中高生たちユースが元気いっぱい賛美した長沢崇史氏作曲「変えられたソング」の歌い出しなのですが、私の人生そのままだな、と思い、ずっと脳内でループ再生されています。
ECの5日間、集会でメッセージや証を聞いたり賛美をしている最中、自分の今までの過去の出来事が、良いことも悪いことも、その時の感情も含め、走馬灯のように頭の中を流れる体験を何度もしました。その回想はいつも必ず「イエスの愛を知る」というハッピーエンドです。
「わたしは変えられた、主イエスを知ってから、愛されている喜びを、どんな時だってイエスはそばにいてなんどでも教えてくれる」
名古屋でキリスト教とは無縁の家庭に生まれ、物心ついた時から両親の喧嘩が絶えな環境で育ったこと。
中2の夏休みには離婚となり、引っ越し先の母の実家である熊本の学校に馴染めず、すぐに名古屋の父の元へ戻ったこと。14歳という幼い頭ではその後の苦労も想像がつかず、元の学校に戻ってみると、戻って来て欲しいと手紙をくれていた親友でさえ新しいグループを作り、学校にも以前のような居場所はなかったこと。父とも精神的な繋がりや温かい会話というものはほとんどなく、遠く離れてしまった母とも電話で話をすれば気持ちがぶつかったりすれ違うようになり、言葉では言い表せないほどの孤独を味わったこと。その頃からずっと、「私は何のために生きているんだろう?」「生きてる意味なんてないから早く死にたいな」と空虚感に苛まれながら、悪あがきするような形でひたすら身近な人たちに愛を求め、とても不安定な思春期と青春期を過ごしたこと。空虚感を紛らわすものの一つに文学があり、本を読んだり文を書いたりすることが好きだったので大学で文学部に入ったこと。作家になるのが夢だったけどそれで食べていける可能性は低いからと予備で教員免許を取っておいたこと。教員採用試験の選考途中で人間関係のつまずきがあり日本の教職の世界が嫌になったこと。そして以前から憧れのあった海外に行ってみたくなったこと。カナダへ渡り、なぜか突然そこで激しい結婚願望が現れたこと。突然の父の死による帰国と失恋のダブル喪失体験。そこから毎日ナイフが胸に刺さっているのかと思うほど生きているだけで痛みを感じる日々が続き、ちょうどその時期に先にハワイに移住していた親友を通して元夫と出会い、辛く苦しい結婚生活を機に教会に導かれていく。洗礼を受けてから5年、まだ5年か、と思うくらい、神様を知らなかった頃の自分が遠い昔に思える、今この集会にいる自分。愛される喜び、主を賛美する喜びを知ってる今。ここまでの私の人生に、どれほどの神様のご介入があっただろうか? 二日目の全体集会で「弱き者に注がれる神の憐れみ」というルツ記からのメッセージがありました。モアブ人であるルツが、義理の母ナオミに付いてベツレヘムへ行き、貧しく落穂拾いをすることになった時、それはちょうど大麦の刈り入れの時で、その畑がちょうどナオミの夫の親戚でもある権力者ボアズのもので、そこにちょうどボアズがやってくる…というストーリーとともに、これまでの自分の人生に起きた偶然とは思えない神様のご介入を重ねていました。私がクリスチャンになる前のところから、神様は私を見えない手綱で引き寄せてくださっていたこと、そして神様を知ってからはミラクルやどんでん返しのような「はからずも、ちょうどその時に」という出来事が何度も起こるようになりました。大学時代に「作家になって食べていくのは無理だから」という投げやりな理由で教職課程を修了したところから、紆余曲折がありながらも教育に関わることに導かれ、今こうしてハワイの小学校で勤務し、サンデースクールの奉仕をすることになり、それがきっかけで今回のECに参加する機会も与えられた。これは単なる偶然ではないと思います。 EC会場にはものすごく才能溢れる優秀な人たちがたくさんいて、歌唱力や楽器演奏や書道や映像編集など芸術的な賜物を持つ人もいれば、頭脳明晰なバイリンガルだったり、そういった優秀さに加えて家庭も祝福されている人が多く、一般的な外の世界とくらべて、神様を信仰している人たちは祝福のレベルが一段違うな、と感じました。とくにクリスチャン家庭で育ったユースや若者たちを見ていると「私もそんな清く華々しい青春時代を送りたかったな」と羨ましくなるほどでした。同時に、私自身も6歳の娘を連れてこのような場所に身を置ける恵みと祝福を心から実感しました。神様は知れば知るほど、本当に「よいもの」をくださるんだなあ、と。同じスモールグループにいた神学生ママが「キリストの愛に預かると言うことは『死』と『復活』の両方のシーズンを経験することだ」と言っていました。確かに、人生には辛く苦しい時が必ずありますが、それが絶望で終わらないというのが、信仰を持つ私たちに与えられた最大の特権なのだと実感しています。関連記事
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