4月号 Vol.359【受難週と復活祭 ・十字架に現された神の愛】

Written by 藤浪義孝牧師
あるオリンピックの競技で、レースの途中で道具が壊れてしまい、もう続けられないと思われた選手がいました。
その時、ライバルチームのコーチが自分の道具を差し出し、その選手を助けたという出来事があります。本来なら競い合う相手であるにもかかわらず、その人は助けることを選びました。その行動は、多くの人の心を打ちました。 このような出来事に触れるとき、私たちは「人を思いやる心」の大切さを感じます。そして同時に、「自分も誰かに支えられている存在なのではないか」と気づかされることがあります。 聖書には、このような言葉があります。 「神は、私たちがまだ弱かったときに、私たちのために愛を示されました。」 聖書は、人は強く見えても、実は弱さや迷いを抱えている存在だと語ります。しかし同時に、そのような私たちを大切に思い、見捨てない存在があるとも語っています。イエス・キリストは、その愛を示すために十字架にかかられたと聖書は伝えています。今月の証
「本山ジュリア物語 No.4」
Written by 宣教部
【平和を求めて】
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2章14節から15節)本山ジュリアが戦後、日本宣教に復帰した理由の一つに、イエス・キリストによる平和を、日米間だけではなく全世界に求める思いがありました。聖書に立ち社会と向き合う保守的な教会について、アメリカの宣教学者であり、日本宣教師であった、 D.ヘッセルグレイブは、「教会を神の聖なる御心を社会に実現するための心臓部heartとして位置づける」と説明しています。カウアイ島の親しくしていた宣教師の家に泊めていただいて夏休みを過ごしていた時、祈っていると「この戦争が終わったら、もう一度日本に戻る」という思いを主は与えてくださいました。朝のデボーション(祈り)の時、「主よ、あなたのよしと見た時に戻ります」と祈りました。すると心は平安で満たされました。 第二次世界大戦が終結して、二年後の1947年、マキキ教会での7年間の奉仕を終え、再び日本の地を踏むことになりました。詩篇32篇8節「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしは、あなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」との御言葉のごとく、たえず小さい者をも導いて用いてくださったことを覚え、主の御名をほめたたえるのです。 再来日する前年の1946年、アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィアで、エステル・バーワ先生とアンナ・パフ先生と私は、日本宣教のためにJapan Gospel Fellowship(福音交友会)が、私を迎える手続きをしてくださいました。同年10月、私の乗っている貨物船は九州の佐世保港に着き、日本の地を踏むことができました。二度と日本に帰って来ないつもりの私でしたが、神に導かれて帰って来たのです。そこで懐かしいバーワ先生に迎えられました。進駐軍の汽車で大阪に向かう途中の車窓から日本の悲惨な状況を見た時、あの美しかった日本がこんなにまでひどくなってと胸が痛みました。大阪と和歌山を結ぶ国道26号線の両側も一面が焼野原と化し、焼け残った土蔵だけがあちらこちらにポツンと立っているありさまでした。 この年、1947年が戦後の日本宣教の第一年になりました。 続く 「この日をば、かの日に伝え」(福音交友会発行)より編集後記
20年ぶりの大雨が続いたハワイの空にも、やっと青空が戻ってきました。(いつにになったら止むのだろう。。)どんよりとした空を眺めてため息をついていた日々のことなど、遠い昔のことのように感じる。人間の心の痛みに似ているかなとふと思う。あんなに苦しかった日々が今は懐かしく、逆にあの事があったからの今であることを感謝する。それも私たちが受けるはずの痛みを、イエスさまが十字架で受けてくださったから。。今年のイースターも感謝溢れる日であった。【玉寄朋子】
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