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5月 22, 2026 | 天主閣便り | コメント0件

5月号 Vol.360【睡眠 ・ 魂の安息】

Written by 藤浪義孝牧師

今朝は、どのような目覚めでしたでしょうか。ぐっすり眠れた朝だったでしょうか。それとも、少し疲れが残っているでしょうか。もしかすると昨夜、なかなか眠れなかったという方もおられるかもしれません。ベッドに入っても、気がつけばスマートフォンを手に取り、しばらく画面を見続けていた、、、そんな夜を過ごされた方もおられるのではないでしょうか。 現代はとても便利な時代です。小さな画面の中に世界が広がり、いつでも誰かとつながることができます。動画や映画を楽しむこともでき、私たちの生活を豊かにしてくれるものでもあります。それ自体は決して悪いことではありません。しかし気がつくと、その時間が少し長くなりすぎてしまい、本当に必要な休みの時間が後ろに押されてしまうこともあります。もしかすると私たちは、その便利さの中で「休むこと」を少し難しくしてしまっているのかもしれません。 睡眠は夜の出来事ですが、その質は昼の過ごし方から始まっています。

今回は「眠り」について、少し一緒に考えてみたいと思います。それは単なる休息ではなく、「魂の休息」についてです。夜になると、暗闇の中でひとつだけ光るものがあります。スマートフォンの画面です。特に何かを探しているわけではないのに、次から次へと情報を追いかけてしまう。やめようと思っても、やめられない。それは決して特別なことではなく、多くの方が経験していることです。心が少し疲れているとき、誰かとつながりたいとき、あるいは満たされない思いがあるとき、私たちはその小さな画面の中に安心を求めてしまいます。それは弱さではなく、「つながりたい」という、とても自然で大切な心の動きです。しかしそのまま夜を過ごしてしまうと、心も体も休まらないまま、次の日を迎えることになります。

では、本当の休息とは何でしょうか。ただ体を横にすることだけが休みではありません。しかし同時に、体を横にして休むこと自体も、神様が与えてくださる大切な恵みです。たとえすぐに眠れなくても、静かに横になり、体を休めるその時間も回復のひとときです。そして心や魂が安心してゆだねられるとき、はじめて深い休息が与えられます。聖書は、眠りを神様からの贈り物として語っています。「あなたが横たわるとき、恐れることはない。あなたは横たわり、あなたの眠りは心地よい。」(箴言3章24節)眠るということは、すべてのコントロールを手放すことです。それでも私たちは眠ります。それはどこかで「大丈夫だ」と信じているからです。
聖書は、眠りを神様からの贈り物として語っています。「あなたが横たわるとき、恐れることはない。あなたは横たわり、あなたの眠りは心地よい。」(箴言3章24節)眠るということは、すべてのコントロールを手放すことです。それでも私たちは眠ります。それはどこかで「大丈夫だ」と信じているからです。聖書はその根拠を、「神は、まどろむこともなく、眠ることもない」と教えています(詩篇121篇4節)。私たちが眠っている間も、神様は目を覚ましておられます。だからこそ眠りは、「神様にお任せします」という信頼の表れなのです。 聖書に出てくる預言者エリヤは、使命の中で心身ともに疲れ果ててしまいました。そのとき神様が最初に与えたものは、新しい使命でも励ましの言葉でもなく、「眠り」と「食事」でした。神様はまず彼を休ませたのです。私たちはつい「もっと頑張らなければ」と思ってしまいます。しかし神様は、「まず休みなさい」と語られることがあります。 私自身も今、これまでの歩みの中で最も多忙な時期を過ごしています。与えられている務めの中で、夜になっても考えがまとまらず、心身ともに限界を感じることがあります。そのとき思い出すのです。どれほど高性能な車でも、充電なしには走り続けることはできません。
私たち人間もまた、自分の力だけで走り続けることはできない存在です。ですから私は、夜になると、まだ気になることがあっても、あえてスマートフォンを置き、ベッドに入ります。それは「ここからは神様、あなたにお任せします」という祈りでもあります。時には長く眠ることもありますが、それは決して無駄ではありません。神様は眠っている間にも、私たちの心を整え、回復してくださるからです。 今夜、もし不安や孤独の中でスマートフォンの光を追いかけているなら、どうか一度、立ち止まってみてください。そして今日の中から一つだけ、感謝を思い出してみてください。あるいは短く祈ってみてください。「神様、今日も守ってくださってありがとうございました。」その小さな祈りが、心を静けさへと導く扉になります。 聖書はこう語ります。「私は安らかに身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4篇8節) 今夜、あなたの心が守られますように。不安が静められますように。神様の平安の中で、安心して眠ることができますように。

今月の証
「本山ジュリア物語 No.5」

Written by 宣教部

【戦後半世紀にわたる日本宣教】 浜寺(宣教師館の所在地)に着いた週の金曜日、バーワ先生とご一緒に、京都にあった戦災孤児施設である平安徳義会に行き、幼児たちにイエスさまについてのお話をしました。毎週通っているうちに、そこで生活している小学生や中学生の子どもたちにも聖書のお話をしてほしいとの願いがありました。大変感謝なことですが、バーワ先生とわたしだけではとても大変なので、青年たちにも奉仕を呼びかけて、7人乗りのワゴン車で通うようになりました。そのうちにそこの職員からも聖書を教えてほしいとの依頼があり、子どもたちが学校から帰ってくるまでの昼間の時間を利用して、4,5人のクラスを持つことになりました。聖書に「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」(ローマ書10章17節)とあります。
「そこで、天の御国は、たとえで言えば、それがともしびを持って花婿を出迎える10人の娘のようです。」

職員の方々は聖書を学んでいるうちに、人間の心は罪にまみれておりその罪のために罰を受けなければならないことがわかりました。

そして、主イエス・キリストはその罪のために、一人一人の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことを信じる者は、だれでも罪ゆるされて、永遠の滅びの刑罰から救われることがわかってこられました。そしてイエスさまを信じてバプテスマ(洗礼)を受ける方たちが起こされました。最初の洗礼は1950年4月2日、ジョージ・エストライク宣教師より、平安徳義会の中学生であった小尉谷はるさんに授けられました。ここで始められた英会話とバイブルクラスからもキリストの福音を信じる若者たちが、多く起こされ、洗礼を受け、浜寺聖書教会が誕生しました。やがて浜寺公園駅前の土地と建物も与えられ、浜寺聖書教会はそちらへ移ることになりました。その後、浜寺聖書教会は福音交友会から独立して宣教を進め、今日に至っています。

再来日してから5年目の1952年、アメリカ本土とハワイで10か月間にわたって行った宣教報告を終え、京都聖書教会の開拓を担当するようになり、本山シズエと共に京都で生活することになりました。教会のさまざまな御用や高校や大学でのバイブルクラス、家庭集会などで御言葉を伝える機会がたくさん与えられ、本当に素晴らしいことでした。

完 「この日をば、かの日に伝え」(福音交友会発行)より

【あとがき】

このときクリスチャンになった者に清水昭三(高石聖書教会牧師)らがいる。現在までに京都・奈良・大阪・和歌山に14教会が生み出された。「そこで、天の御国は、たとえで言えば、それがともしびを持って花婿を出迎える10人の娘のようです。」(マタイ25章1節)本山ジュリア宣教師の地上での最後の日々は、衰えゆく肉体を抱えつつ、花婿であるキリストを迎えるために「ともしび」と「油」の準備を完了させるときであった。 1999年秋のある早天祈祷会において、本山シズエから「ジュリア先生が身を打ちたたいてイエスさまに詫びている。毎日欠かさず4章ずつ行っていた聖書朗読ができなくなったので祈ってほしい」という祈祷課題が出された。神の御言葉に対する激しい飢え渇きには圧倒されるばかりである。1999年12月24日(金)の日の朝、光の中を天使に抱えられて天に凱旋した。クリスマスイブの朝であった。12月26日(日)、浜寺聖書幼稚園に700名が集まった葬儀は、彼女の遺言「ハワイをイメージした明るい服で来て下さい。黒の喪服はお断り」が厳格に適用され、天国を予感する明るさを備えた式となった。

編集後記
マキキ教会から送り出された宣教師、本山ジュリア先生の物語を5回にわたってこの天主閣便りで紹介いたしました。第二次世界大戦をはさんでの日本への宣教の種まきの実が今でもあちこちで成っていることに主の業を見ます。先生の人生が今の私たちの信仰への大きな励ましとなりますよう祈り私自身もその働きの一端を担いたいと願っています。【玉寄朋子】

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