woman with american themed scarf wrapped around her neck

3月 31, 2026 | 天主閣便り

3月号 Vol.358【受難節のただ中で ― 恵みに向きを変える】

Written by 藤浪義孝牧師

ある水曜日に、額に小さな十字架の印をつけている人を見かけたことはありませんか。「灰の水曜日」と呼ばれるその日はすでに過ぎましたが、教会は今、受難節(レント)という季節の中を歩んでいます。 受難節とは、イエス・キリストが十字架へと向かわれた歩みを覚えながら、自分自身の生き方を神の前で静かに見つめ直す時です。イースター(復活祭)までのおよそ40日間、私たちは少し立ち止まり、心の向きを整えます。 聖書には「灰を額に塗りなさい」という命令は書かれていません。それでも聖書には、灰やちりを用いて神の前に立つ姿が描かれています。灰はへりくだりのしるしであり、「人は神ではない」という事実を思い出させる象徴でした。

「あなたはちりだから、ちりに帰る。」(創世記3章19節)

この言葉は人を絶望させるためではありません。「あなたは限りある存在だ。だからこそ神の憐れみが必要なのだ」と、私たちを真実の場所へ戻す言葉です。 聖書が語る「罪」とは、単なる道徳的な失敗ではありません。神を信頼せず、自分の力で生きようとする姿勢そのものを指します。受難節は、その向きを見直す季節です。しかし、ここで大切なのは、救いは人間の努力から始まるのではない、ということです。 十字架は、人間が神に近づくための象徴ではありません。聖書が語るのは、イエスキリストが私たちのために救いを成し遂げてくださった、という出来事です。 聖書はそのことを「贖い(あがない)」という言葉で表します。それは、私たちが自分の力では解き放つことのできない罪や重荷を、キリストが代わって引き受け、自由への道を開いてくださった、という意味です。さらに聖書は語ります。私たちは努力によって自分を正しくするのではなく、キリストのゆえに神から「義とされる(正しい者として受け入れられる)」のだと。それは、弱さや罪を抱えたままでも、キリストのゆえに神の前に立つことが許される、という恵みです。
だから悔い改めとは、自分を責め続けることではありません。「自分で自分を正そうとする生き方」から降りて、すでに与えられている赦しと受け入れに向きを変えることなのです。灰はやがて洗えば落ちます。残るのは灰ではなく、キリストの恵みです。 日本では「反省すること」が大切にされてきました。失敗を振り返り、自分を省みる姿勢は、誠実さの表れでもあります。そのため受難節を、自己否定や修行の季節のように感じるかもしれません。「もっと正しくなろう」「もっと努力しよう」と、自分を引き締める時のように思えることもあるでしょう。 しかし福音は、そこに静かに別の光を当てます。キリスト教が語る救いは、「十分に整った人」に与えられるものではありません。自分の弱さを克服し、きちんと立て直してから神に受け入れられる、という順序ではないのです。 聖書はこう語ります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)
私たちが神に心を向ける前に、神が私たちに心を向けてくださいました。私たちが「助けてください」と言える前に、キリストは十字架を担われました。 十字架は、人間の努力の到達点ではなく、神の側からの決断でした。だから救いは、「これから達成する目標」ではなく、「すでに成し遂げられた恵み」なのです。 福音はこう語ります。あなたは自分を救わなくてよい。あなたは神にならなくてよい。神に近づけるようになってからでなくてよいのです。整ってからでなくてよいのです。救いは、すでに十字架において成し遂げられているのです。 今、私たちは受難節のただ中にいます。忙しい日々の中で少し立ち止まり、「私は何に頼って生きているのだろう」と問い直してみる。それは努力の季節ではなく、恵みに立ち返る季節です。 この受難節が、皆さんにとって、自分で抱え込むのではなく、キリストの十字架の愛にゆだねられていることを思い出す時となりますように。自分の力ではなく、キリストのゆるしと恵みに支えられていることを思い出す時となりますように。この季節が皆さんの心に重荷ではなく、自分を追い立てる時ではなく、キリストにゆだねて深く息をつく、静かな解放の時となることを心から願っています。

今月の証
「本山ジュリア物語 No.3」

Written by 宣教部

【ムーディー聖書学院】 1886年ドワイト・ライマン・ムーディーによりアメリカ・イリノイ州シカゴに設立されたキリスト教神学校。日本人では中田重吉や木村清松らが学んだ。世界宣教はまさに神の御業である。 本山ジュリアは語る。「1937年、日本では冬の一番寒い1月、岐阜県大垣で伝道する美濃ミッションへとやってまいりました。当時、キリスト教に対する烈しい迫害があり、ミッションが経営する幼稚園も閉鎖になり、聖書学校も礼拝にも日本の方たちは来られなくなりました。それからというもの、わたしたちは毎日のように自転車に乗って近くの村々に出かけ、路傍で、集まってくる子どもたちに福音を伝えました。 ある村では石を投げられ「帰れ、帰れ!」Tom叫ばれましたが、喜んで迎えられた村もありました。そうした村には月一度巡回しました。そのような中にも、イエス様を信じた6年生の男の子がひとり与えられたことは本当に嬉しいことでした。またあるとき、大垣からバスに乗って行った初めての村では、子どもたちが喜んで熱心にイエスさまの話を聞きました。わたしたちが帰ろうとした時、「信じるって何ですか?」と質問され、説明したところ、「イエスさまを信じたい」とのことで、一緒に祈って神様に委ね、大垣に戻りました。2週間後、もう一度同じ村に行きましたが、いるはずの子どもたちが見当たりません。
神はハワイではなく日本に行くことを私に示され、日本宣教への道が開かれたのです!

間もなくして、お寺の和尚さんが生垣のある庭を歩いているのが見えました。バス停のところにあるタバコ屋で2人のご婦人たちがひそひそ話をしていて、とても不愉快な気持ちになりました。でも一方では、そうした大人たちの中でも、2人のお嬢さんたちが、はっきりと主イエスさまを信じて救われ、ほんとうに感謝でした。

その中の一人の方は、人目を避けて月1回くらいミッションに寄り、聖書の学びをされました。そのうちにとうとう美濃ミッションは伝道できなくなり、やむを得ず解散しなければならない事態に至りました。戦後にこの方からお便りをいただいて知ったことですが、迫害の中にあっても信仰を持ち続け、今も元気に信仰生活を送っておられます。」 美濃ミッションとは、セディ・リー・ワイドナー宣教師によって1918年、岐阜県大垣に設立された、伝道団体。教派的背景は無い。聖書信仰、神社参拝を偶像礼拝として拒否、日曜学校と幼稚園による伝道などが特徴。31年(昭和6年)満州事変勃発という時局柄、美濃ミッションに対する排撃運動は33年に頂点に達し、翌34年に幼稚園は閉鎖。このような状況の中に本山ジュリアらが派遣されたのである。しかしここで共に奉仕したエステル・バーワ、アンナ・パフ、佐伯茂子らとの出会いは戦後、再び実を結ぶことになる。   続く  「この日をば、かの日に伝え」(福音交友会発行)より

桜プロジェクト

高知県の桜の木がハワイに植樹され、世代を超えた文化的な絆を象徴 ハワイ州ホノルル — 2026年3月25日 ハワイ・サクラ財団の主催により、2026年3月25日午前9時、ホノルルのナ・プエオ・ミニパークにて桜の植樹式が行われます。この式典は、日本の高知県とハワイの間に築かれ、深まり続ける文化的絆を象徴するものです。ハワイ桜財団の使命は、本場の日本の桜の木をハワイに紹介し、地域社会における桜への理解と親しみを深めるとともに、日米間の友好と親善を促進することです。同財団は、高知県出身であった代表理事の故夫の遺志に根ざし、長年にわたり高知県とのつながりを大切にしています。「レインボー・コネクション」交流プログラムに参加している中学生は、高知から運ばれてきた桜の植樹に参加します。今回植樹される桜の木には、深い象徴的な意味が込められています。海を越えて運ばれてきたその旅路は、奥村多喜衛牧師をはじめとする多くの高知出身者がハワイへ移住し、日系アメリカ人コミュニティの礎を築いた歴史を映し出しています。式典には、政府関係者、議員など、学生など、ハワイと高知双方の代表者が一堂に会します。ハワイでは、高知県代表団および青少年の訪問に対し、大きな期待が寄せられています。このイベントは、高知とハワイの間の友情、文化交流、そして次世代へと受け継がれる絆を象徴する力強いものとなるでしょう。
編集後記

今年で21年目となる、高知県土佐塾中学との交流、レインボー・コネクション プロジェクト。14名の中学2,3年の学生さんと2名の引率先生が10日間の滞在を楽しむ。その引率先生は、ハワイ育ちのM先生。ご本人が20年前、マキキ教会からのアンバサダーとして、高知へ行き、その後教員免許を取得し、土佐塾中学の英語の教師として就職し、家庭も持ち、すっかり高知に根づき、ハワイと高知の架け橋の要として活躍してくださっている。そして今年は高知県牧野植物園より桜の苗木も海を渡ってやってくる。神様のこの交流物語はまだまだ続きます。【玉寄朋子】

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